バケモノの子・熊徹(くまてつ)のその後。最後は死んだのか解説!
アニメ映画「バケモノの子」のラストシーンは、熊徹(くまてつ)が自宅の屋上で笑うところで終わっています。
しかし彼は付喪神に転生しているので、元の姿には戻れないはず。
あの意味って、一体なんだったのでしょうか?
九太の中にいた、イメージでしかなかったのか…
やはり熊徹自身は肉体の無い存在になって、死んだのでしょうか?
物語のネタバレにも繋がりますので、読む場合は注意してください。
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アニメ映画「バケモノの子」熊徹(くまてつ)のその後。最後はやはり死んだのか解説!
細田守監督のアニメ映画「バケモノの子」。
闘技場のシーンでは、熊徹(くまてつ)が一郎彦の攻撃によって致命傷を受けてしまいます。
その後一郎彦は闇に取り込まれ、人間界の渋谷に現れました。
傷ついた体を引きずりながら、宗師さまにあることを願い出るのです。
それは、付喪神に転生すること。
自分も宗師になったため、資格は得ていたのです。
「神に転生したら戻れない」との言葉に対しても、一切迷いがありませんでした。
九太と一郎彦が繰り広げる最後の戦いの中、大太刀に転生した姿で現れます。
それを胸の中の剣として自分の中に取り込んだ、九太。
胸の中の足りないものを埋めて、半端者同士が一心同体に。
一郎彦との戦いが終わり、その後熊徹はどうなったのでしょうか?
元の姿に戻れなくなった、ということは…
やはり転生した瞬間、死んだと解釈するべきなのでしょうか?
熊徹の意識はすでに無い。
二人で交わした会話は、あくまでも九太が描いたイメージ中の出来事に過ぎないのでしょうか?
アニメだと、わかりづらいですよね。
「すでに亡くなった重要人物がイメージの中で現れて、主人公を励ます」
こういった流れは、過去に出た漫画やアニメなどでは定番の流れとなっているので。
本当は生きているのか?
実はもう死んでいるが、九太の心の中のイメージとして生き続けているのか?
小説版では、若干わかりやすく説明されていました。
![]() バケモノの子 (角川文庫) [ 細田守 ] |
九太と取り込まれた熊徹が会話している最中、鯨(一郎太)が襲ってくるシーンがあります。
アニメを観ていると、九太自身が力を発揮して跳ね返しているように見えます。
しかし小説版では、こう表現されていました。
「胸の中の熊徹は、付喪神の力で闇を跳ね返す」と。
つまり、九太自身の意思で跳ね返したわけではない模様。
ということは、この時点では熊徹自身の意識があるとも解釈出来ます。
つまり、九太の心の中だけのイメージ・幻では無いようです。
さらに、二人が会話するシーンがありました。
それは、戦いが済んだ後。
早朝の渋谷で、二人はいつものような喧嘩口調のやり取りをしていました。
しかし実際の見た目は、胸のあたりに手を添えている九太ひとり。
この場面も、もうこの世にいない熊徹とイメージの中で会話しているように受け取れます。
「俺のやる事を、そこで黙ってみてろ」
「おう、見せてもらおうじゃねえか」
受け取りようによっては、お別れの言葉にも受け取れます。
この後、熊徹が旅立っていったようにも。
これは、さすがに曲解過ぎますかね。
ちなみに小説版では、渋谷の朝に交わされた二人の会話の中でこう説明されていました。
「実体を失うかわりに、九太の胸の中に納まった」
「神様になっても、熊徹は熊徹」
「二人の会話は、ちっとも変わらない」
これを見る限りでは、元の肉体は死んだのかもしれませんが…
熊徹は付喪神として、九太の中で生き続けているように解釈できます。
元のバケモノの姿には戻れず、以前のような生活は無理ですが…
今後も、人生を共にするのではないでしょうか?
アニメ「バケモノの子」の最後。渋天街のイベントでは、何のお祝いをしていたのか?
全てが解決した後、渋天街ではお祝いイベントのようなものが開催。
戻ってきた九太を、大勢の住人が祝福していました。
九太の凱旋イベント?
でも、戦いがあったのは人間の世界で、渋天街には関係ないはず?
一体、何を祝っていたイベントだったのか?
というと…
小説版によれば、やはり「九太を祝う宴」だと書かれていました。
鯨の影響は、渋天街にも振動という形で現れていたのだそう。
その原因を取り除いた功績者として、九太祝うことにしたのです。
本来は、宗師になった熊徹を祝う宴だったのですが。
転生した彼のかわりに弟子が引き受けろ、と言いくるめられたのでした。
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